名が成すところ
- 長緒 鬼無里
- 2015年8月7日
- 読了時間: 5分
昨日、友人のみらんちゃんと、彼女が親しくしているミュージシャンの方(以後K氏)とあるお店に行かせていただきました。
今回は、私が今構想中のある企画案件についてみらんちゃんがその方に話したところ、興味を持たれたということでお会いしていただけることとなりました。
場所はK氏がよく利用されているというお蕎麦屋さん。
居合いをされていて着物に馴染みのあるK氏からの提案で、浴衣を着て集まり食事をすることになりました。(こういう遊び心がミュージシャンらしいですね)
住宅地の一角にひっそりとある隠れ家的なそこは、内装には赤土が塗られ、創作作家さんの作品がさりげなく飾られた素敵なお店でした。
昼食には遅い時間でしたので、お客は私たちだけで、店内は貸し切り状態でした。
お店のご主人が打つ十割そばや、素朴な焼物の器に盛られた蕎麦豆腐、蕎麦ご飯などに舌鼓を打ちながら会話も弾み、いつしか話題は私の小説のことに。
「花蓮〜ファーレン〜」を書くことに至ったいきさつなどをK氏に訊ねられ、主要人物である曹芳の話をしていると、お料理を運んで来られたご主人が思わず手を止められました。
「もしかして作家さんですか?」
「いえいえ、好きで書いてるだけの素人です」
器を卓に並べられた後も、ご主人はお盆を抱えたままその場に腰を据えられました。
「もともと三国志がお好きだったんですか?」
「いえ、まったく。その前に邪馬台国の話を書いていて、たまたまそれと同時期だったので書くことになったんです」
「邪馬台国?」
ご主人とそんなお話をしていると、今度は奥様が立ち止まられました。
「どんなお話ですか?」
「卑弥呼の弟が国をまとめていくお話です」
「弟?」
「はい。私はアマテラスは卑弥呼を神格化させたものだと想像しているので、その弟に月読と名付けて…」
「月読!! 私大好きなんです!!」
それからは、ご主人と奥様も交えての楽しいお話が夕方遅くまで何時間も続きました。
ご主人は何事にも探究心があるご様子で、奥様は神話やスピリチュアルな世界に造詣が深く、私の書く話の内容にとても興味を持っていただいたようです。
K氏も歴史や物理学など幅広い知識をお持ちで、いつしか話は宇宙の始まりまでに及び、果てにはアインシュタインの相対性理論へと続きました。
「お名前は何とおっしゃるんですか?」
ふと、奥様が私にそう訊ねてこられました。
「えっと、ペンネームですか? それとも?」
「あ、結婚されてからの今のお名前ではなく、旧姓です」
「ああ、〇〇です」(ちょっと珍しいので伏せます)
「やっぱり!」
実は、私の旧姓にはある木の実の名が入っています。
奥様はその字に、何かしら役目を持っているような意味があるとおっしゃるのです。
「ルーツとか、お調べになられたことはありますか?」
「一応祖父母の出身地には、同じ名を持つ城主がいた城があったようです」
「そこからもっと調べられたら、また面白いお話が書けるんじゃないですか?」
「え? 戦国時代? それはまた一から調べ直さなくては…」(苦笑)
このような不思議な話の繋がり方は、小説を書き始めてから意外に多く、特に名前にまつわることが多いような気がしています。
私の筆名は中学生の頃考えたものですが、長野県の旧鬼無里村からお借りしています。
「鬼がいない(無)里」というのが気に入って当時何気に付けたものですが、数十年の時を経て、再び創作用筆名として使っていること自体にも不思議な縁を感じています。
Twitterで活動をはじめてからは、鬼無里村の伝説を研究していらっしゃる方とお知り合いになれたり、まずこの名に惹かれたと言ってくださる方がいらしたり。
先日は、二人いる娘たちの名にそれぞれ「琳」と「梨」の字が入っているとお話した方から、「驚いた」と言われました。
以前にもお坊さんに、「いずれも仏様にまつわるものだから縁起の良いいい名前」と言っていただいたのですが、その方がおっしゃるには知恵の実は「林(琳)檎」で理解の実は「梨」なのだそうです。
どちらも先に名前の響きが決まっていて後から漢字を付けたのですが、その時選んだ字がたまたま良かったようです。
そういうと、その方は「たまたまのたまが琳だったんですね」と言ってくださいました。
拙作の登場人物である「月読」にも、不思議な縁を感じています。
第一章を書いた高校生の頃には、単にアマテラスの弟だからと付けた名でしたが、その名に興味を持っていただいた多くの方々とお知り合いになることができました。
また、書いているうちに、月読神が海人族(あまぞく)の崇める神であることを知り(それまではまったく知らなかったのです)、その後卑弥呼の時代に日食があったことも知ることとなり、物語が芋づる式に繋がっていきました。
時を前後して、日食時に木々の間などを通り抜けた影が欠けた太陽の形、つまり三日月型になるのを初めて目にし、それがクライマックスを書く上でのヒントとなりました。
お蕎麦屋さんの奥様は私の旧姓や執筆スタイルを聞いて「役目を持って書かされているのでは?」と言ってくださいましたが、それはあながち間違いではないような気がしています。
どの作品も私の実力で書いたものではなく、何か「書くようになっていた」ような気がするのです。
現在は役目が無いのか、まったく執筆の神は降りてきてくれないのですが…。
お店を後にする時、墨で絵や書を書かれている奥様が、うちわを二つ手にして来られました。
「どちらかお好きな方をどうぞ」
そう言って、手書きのうちわを差し出され、私はインスピレーションでその片方を選びました。
「これは青梅ですか?」
うちわに書かれた青緑の円を見て、私がそう訊ねると、奥様は笑って答えられました。
「いえ、月です。やはり月に縁がありますね。それで扇ぎながらだと、きっといいお話が書けますよ」
K氏のお話の中で、古代の日本には「ヲシテ」という文字があったというものがありました。
その言葉では、単語単位ではなく、一文字一文字に哲学的な深い意味が込められていたそうです。
私はもともと、言霊(ことだま)という言葉が好きなのですが、元来日本語には一つ一つの発音に魂が込められていた気がしています。
言うなれば、名も発音の塊。
そう考えると、それに何らかの力があるとしても不思議ではありませんね。
その力に導かれたご縁を、今後も大切にしていきたいと思います。

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