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阪神淡路大震災から20年目を迎えて

  • 執筆者の写真: 長緒 鬼無里
    長緒 鬼無里
  • 2015年1月16日
  • 読了時間: 4分

 2015年1月17日、阪神淡路大震災から20年目を迎えます。

 実は20年前のこの年は、私が主人と結婚した年でもあります。

 私たちが結婚式の予約をしていたのは、1995年2月26日。

 震災は、その約一ヶ月前に起こりました。

 当時、私は兵庫県の川西市というところで暮らしていました。

 川西市は兵庫県の東の端に位置し、被害の大きかった伊丹市や宝塚市とも隣接しています。

 夜明け前、地中から突き上げてくるような強い衝撃で目を覚ました私は、何が起こったのか理解する間もなく、ベッドの上を何度も縦方向に飛び跳ねました。

 夜が明けて、山の上にある我が家から麓の家々を見下ろすと、瓦が滑り落ちたり、屋根が抜けた家がいくつも見えました。

 この地震が起こる前、近くに設置された地震計が、余震らしきものを数回観測したと聞いていた私たちは、当初、この地域が震源地ではないかと思っていました。

 そう思ってしまうほど、私たちにとっては初めて経験する大きな揺れだったのです。

 情報を得たくても、停電しているため、テレビを見る事ができず気を揉んでいると、父が車のエンジンをかけてラジオをかけ始めました。

「高速道路の橋脚が倒れています」

「街が火の海です」

 ラジオのアナウンサーは、にわかには信じられないような言葉を連呼していましたが、昼頃電気が復旧し、ブラウン管で目にした情景は、耳から得た情報から想像していたものをはるかに越えるものでした。

 実はこの日のほんの3日前、私は当時婚約者であった主人と神戸の三ノ宮を訪れていました。

「ハリボテのウェディングケーキは嫌だ」

 そう思っていた私は、当時はまだ珍しかった「クロカンブッシュ」というものがある事を雑誌の記事で知り、そこで紹介されていた神戸の製菓会社に問い合わせてみたのです。

 「クロカンブッシュ」とは、シュークリームをタワー状に積み上げたもので、シューのひとつひとつを取り分けてゲストに食べてもらえるという点に惹かれました。

 通常その会社では、神戸市内にしか配達していないということでしたが、電話口に出て下さった担当の方は、「おめでたいことですから」と言って、大阪市内にある私たちの披露宴会場まで運んでくれると約束して下さったのです。

 その最終発注をするため、その会社が経営する店舗を訪れたわずか3日後、あの震災が起きたのです。

 ほんの3日前歩いた、幼い頃から幾度となく訪れた美しい街が、崩れ、倒れ、燃えている。

 延々とテレビから流れ続ける映像を見ていると、胸が締め付けられるように痛いのに、なぜかいつまでも目を逸らす事はできませんでした。

 後日、その会社に連絡をさせていただくと、製菓会社の工場は全壊。

 私たちの担当をしてくださっていた方は、家族全員連絡が取れないということでした。

 当然、結婚式も開くべきかどうか悩みました。

 私の実家の親戚には、被害のひどかった地域に住んでいる人も少なくなかったのです。

 すでに招待状は発送したあと。

 けれど、皆さんが大変な思いをしている中で、結婚式なんて不謹慎ではないだろうか……と。

 でもそんな時、私たちの背中を押してくれたのは、意外にもそんな被害を受けた親戚の人たちでした。

「こんな時だからこそ、明るい話題が欲しい」

 そう言って、家が半壊した親戚も快く参列してくれたのです。

 無事式を挙げることができ、新生活を始めた私たちでしたが、たまたまその1年後、主人の転勤により、神戸で暮らすことになりました。

 そこから大阪市内の会社へ通う電車の中から見る街には、まだまだ震災の爪痕が色濃く残っていました。

 1年経った神戸の街は、いたるところ更地だらけ。

 公園には、ブルーシートで作られた小屋がいくつも並び、どこまでも続く仮設住宅の銀色の屋根。

 けれどその後、車窓から見続けたその景色は、信じられないスピードで変化していきました。

 更地だった土地に真新しい家が建ち、海側には復興住宅である高層マンションが次々と建設されていきました。

 波打つように盛り上がり、とても車が走れる状態ではなかった道路も、アスファルトが敷き直され、倒れた橋脚が撤去された後には、まるで復興の象徴のように、新しく堂々とした橋脚が立ち並んだのです。

 その頃、産業機械の設計をしていた父は、昔からの得意先であった神戸の製菓会社工場の再建に心血を注いでいました。

 神戸にも得意先を持っていた父は、公私ともに親しくしていた方を何人か亡くしたようで、震災直後は少し言葉が少なくなっていたような気がします。

 けれど、工場の再建をはじめてからは、寝食も忘れる程仕事に没頭していたようです。

 結局、その工場の完成に前後して、父は癌を患い、その数年後亡くなりました。

 でも、その会社の専務さんが、毎年命日に手を合わせに来て下さる姿を見て、クライアントとも仕事以上の絆を繋いでいたのだなと、そんな父を誇りに思いました。

 数年前、その専務さんが、「工場がテレビの番組で紹介されるから見て下さい」と連絡を下さいました。

 そこで父が設計した機械が、今も元気に活躍している様子を目にすると涙が出ました。

 あの日から20年。

 間もなくあの時間がきます。

 黙祷

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